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釜石 2013

ずいぶん時間が経ってしまったが、2013年5月に釜石を訪れたことを記したいと思う。

私は1981年8月から1984年3月まで釜石に住んでいた。 当時は新日鐵釜石ラグビー部が日本選手権7連覇中、街も人口がピークに達していた時期で盛り上がっていたのだが、 同時に釜石が衰退を始めたころでもあった。

私は福岡に居を構え、母は山口県の地元で生活をしていたので、釜石とは縁がないまま30年も経てしまった、そんな折、 発生したのが東日本大震災である。

私の母は、母の友人であるSさん*1のことが気がかりだったらしく、 新聞メディアのサイトに掲載されていた避難者の名簿などを探したが見つからなかった。 現地のヤマト運輸が動き始めたというのを聞いて、母はダメ元で食料や衣類などを送ってみたところ、 なんと届いたという返事がSさんから戻ってきたらしい*2

それ以来、母は「釜石に行きたい」と口にするようになった。震災から2年経ってやっと具現化できたのだ。

旅程は3泊4日。山口県から釜石まで10時間半の大移動であるため、初日と最終日は新幹線と釜石線を乗り継いでの移動のみである。

徳山0750(のぞみ6)東京1213
東京1240(やまびこ61)新花巻1540
新花巻1607(釜石線普通)釜石1755

釜石駅ではSさんご夫妻が出迎えてくれた。駅舎は新しくなっていたものの、プラットフォームから改札までの通路は30年前そのままだった。一気に当時の記憶がよみがえってくる*3

ホテルにチェックインしたあと、Sさんご夫妻と新華園で釜石ラーメン。津波の直撃を受け、周囲は更地になってしまっていたが、この店は鉄筋で早々と復旧させていた。醤油味で澄んだスープのラーメンはもちろんだが、中華料理の一品メニューも美味い。

上中島町

私の家族は、海岸から西の内陸側へ入った地域にある上中島町に住んでいた。Sさんご夫妻のご自宅も同じ町内である。 地元の人は愛着をこめてかみなかと呼ぶ。海岸からは3km以上離れているので、津波の被害は一切受けなかった。

最初に訪れたのは自宅があった場所。すっかり更地になっていた。被害を受けなかったことで需要が高まった土地を売るために取り壊したとのこと。

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続いて、私が通っていた小学校へ。 30年前に卒業した当時は中妻小学校だったが、近年周辺の小学校と統合されて双葉小学校に名前が変わっている。 校舎は建て替えられていたが、屋外のプールは当時のままだった。

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学校を離れて、上中島多目的グラウンドへ。

小学生のとき、ニュージーランドから遠征してきた(おそらくクラブ)チームと新日鐵釜石ラグビー部の練習試合を授業で観た憶えがある。 が、現在はプレハブの仮設住宅が建ち並ぶ場所になっている。

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Sさんご夫妻のご自宅へお邪魔して、両石地区を襲った津波の様子を撮影したビデオを見せていただきながら伺ったお話。

  • 6年生のときの隣のクラスの担任だったH先生が両石にお住まいだったが津波で亡くなられた。地震の直後に高台に逃げていたのだが、何かの理由で自宅へ戻られて犠牲になったという。身近だった人が亡くなられていたことにショックを受ける。
  • 釜石の奇跡は有名な話だが、地震のあと車に乗っていて渋滞にはまってしまい、「車を捨てて逃げろ」と窓を叩く声を無視した人が数多く犠牲になった。けっして奇跡ばかりではない。
  • 上中地区は津波に遭わなかったので、避難所に身を寄せることができなかった。物資の配給を受けることができず、調達にはかなり苦労した。母が送った食料や衣類にはずいぶんと助けられた。また、水道が早期に復旧したので洗濯はできていたものの、気を遣って外には干せなかった。家を失った人とそうでない人とは相当な軋轢があったらしい。

釜石港

このあたりは壊滅的で、三陸鉄道の高架だけが助かった状態で残っていた。

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港は打ち上げられた船によって破壊されたままになっていた。

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根浜海岸

小学生時代に海水浴にきたことがある。地震によって地盤が沈んだため砂浜が失われてしまった。

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鵜住居地区

ラグビーワールドカップのスタジアムが建設される予定の鵜住居地区は、一面更地になっている。ある建物を除いて。

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真ん中の白い建物が鵜住居防災センターである。

この地区はもともと津波のときには高台に避難することになっていたが、訓練の際には防災センターに避難することが常態化していた。そのため、地震発生後に住民がこの建物に殺到してしまった。

見てのとおり、2階建ての低い建物であり、屋上に上がれなかった人が2階に取り残され、程なく襲ってきた津波にのみ込まれてしまう。 2階に取り残されて助かった人は、息絶え沈んでしまった人を踏み台にするしかなかったという。

大槌町

大槌町も市街地は壊滅的。この写真は、田舎によくある風景、ではなく、商店や住宅が建ち並ぶ市街地だった場所である。

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町長が亡くなった大槌町役場。

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仮設商店街。小学校の校庭だった場所に作られた。

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釜石市街地

釜石の中心部も壊滅的だった。震災から2年だが、少しずつ建物が再建されている。

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震災以降、閉鎖されている市民会館。真ん中にあった像がずれたままになっている。

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釜石駅前に建つシープラザ釜石の中に出店する、NHK鶴瓶の家族に乾杯」で紹介されたお店。 ここで釜石土産の定番わかめを購入し、宅配便で発送してもらうことに。

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最終日の朝、Sさんご夫妻に釜石駅まで送っていただき、今回の旅行は終了。

釜石1022(快速はまゆり4)新花巻1152
新花巻1222(やまびこ56)東京1524 ※E5系
東京1550(のぞみ117)広島1959
広島2001(こだま753)徳山2038

*1:私や弟の同級生のお母さんなのだが、私にはその同級生についても記憶がない…。

*2:さすがヤマト

*3:が、まだ同級生であるSさんの息子さんのことは思い出せない…。